独立して仕事をするようになってから、初めての年末年始。
僕の実家に妻と2人で帰省した。
徐々にコーチングも仕事になり始め、父や母にも心配をかけずに済むなと思っていた頃、予想だにしない言葉を母から告げられた。
それは、帰省した日に、妻と母と3人で、夕食を食べていたときだった。
いきなり母がかしこまって、話があると言い出した。
仕事を変えるとか、そんな話かなと思っていたら、もっと深刻な話だった。
「母さんね、癌になったの」
泣きながら、そう告白する母の言葉を聞いて、妻も泣きだした。
僕はというと、あまりにも突然のことすぎて、ただただ信じられなかった。
まだ50代半ばだったし、一見すると、元気そうな母のままだったから。
それに今は癌でも治る時代。
ちょうど1ヶ月後に手術もするとのこと。
僕もしっかりサポートをして、早く回復できるように支えようと心に決めた。
母の病院に付き添ったり、ご飯をつくったりとせわしなく過ごしていると、手術の日がやってきた。
仕事で忙しい父も弟も揃って、手術に向かう母を送り出した。
手術はその日のうちに無事終わり、母も思ったより元気そうだった。
食事もしっかり食べていて、これはすぐに退院できるかもと思いきや、抱いた希望が見事に打ち砕かれた。
その後、母の身体は食事をなぜか受けつけなくなっていった。
食事がとれなくなると、だんだん身体が弱っていく。
やがて、部屋の中にあるトイレにさえ、歩いて行くのが困難になっていった。
そんな母の姿を見るのは、とても辛かった。
それでも僕と妻は、ほぼ毎日お見舞いに行き、父と弟も土日や平日の夜を使って病院を訪れた。
家族全員で母の回復を祈って、懸命にサポートをした。
そんな家族の願いも虚しく、母の状態は良くなるどころか、悪化していった。
そして、入院して、2ヶ月が過ぎようとしていた頃。
とうとう、僕が覚悟をしなければいけない日がやってきた。
ちょうどその日は、たまたま1人でお見舞いに行っていた。
容体が良くないながらも、お見舞いに行くと、いつも母とはおしゃべりができた。
でもその日は違った。
母は喋ることすらしんどそうで、ずっと寝ていた。
まるで意識がなくなってしまったようなその姿を見た時、僕は涙が止まらなくなった。
今までは、ずっと治るものだと思っていたけど、いよいよそれが難しいと悟ったのだ。
ずっと考えないようにしていた、母との別れが迫っていることを。
それがわかった時、声を上げて泣いた。
母が起きたら、心配をかけてしまうので、そっと病室を出て家へ戻った。
真っ暗な夜の中を、顔をぐしゃぐしゃにしながら、自転車を漕いで。
あの時ほど、支えてくれた妻の存在に、感謝したことはない。
そして、それから約1週間後。
桜が美しく咲く春の穏やかな陽気の中、母は帰らぬ人となった。
正直、今でも寂しくなるし、この文章を書いている今も、当時を思い出して泣いてしまっている。
孫の顔を見せたかったし、一緒に旅行にも行きたかった。
もっと親孝行がしたかった。
そんなわけで、この母との別れは辛かったけど、実は1つだけ幸せだったこともある。
それは、母を元気づけるために、家族全員が何度も集まったとき。
僕や弟が子どもだった頃から、家族でつくってきた思い出について、数え切れないほど話をした。
昔住んでいたマンションでの話から、家族旅行での話。
母が怒り狂った話から、父が持っている鉄板の笑い話。
ネパールでの僕の結婚式の話から、弟の留学の時の話。
うちの家族は、決して仲良し家族ではないと思っていたけど、それでもたくさんの思い出をつくっていた。
それに気づいた時、僕はとても幸せを感じたのだ。
たくさん喧嘩もしたし、理解できないことも多々あったけど、僕はこの家族の一員で良かったと心から思えた。
そして、これからは、妻とそんな家族をつくっていくと決めた。